ガルシア・ロルカを知ったのは1974年のことだった。
その年の9月、日本ギタ−連盟の会長であった小原安正(故)門下主催によるギターコンサートにゲスト出演し、打ち上げの後に案内されたタブラオ・フラメンコの店で、俳優の天本英世(故)さんが
詩を朗読していた。それがロルカとの出会いであった。
又、その頃、アランフェス協奏曲を作曲したロドリゴ(故)が初来日し、東京での歓迎会で夫妻を前に演奏したこともあった、スペインへの関心は高まるばかりであった。
それ以前の60年代前半に来沖した長峰ヤスことホセ・ミゲルとの交流によって、スペイン的土臭さは身に染みてもいた。
しかし、沖縄の清らかな精神世界を踏みにじり、軍産複合体文明による破壊が急速に進みだした沖縄で、体制に抵抗する平和の武器として、音楽に意味と勇気を与えてくれたのは実は学生時代に知ったチェロのパブロ・カザルスの存在であった。そしてそれが詩人ガルシア・ロルカにつながったのである。
'82年、友人のヒゴマサヒロの口から「血の婚礼」の話が出た時、即座に応えたのは、それなりのものが培われていたことになる。
私は未だにスペインに行ったことがない。沖縄から目が離せないし、何より人間の心から目が離せないまま、今日まで来ているのである。
2005年1月 海勢頭 豊