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用語解説 戦 後  B青空教室


 沖縄戦で校舎が破壊され、戦後、青空の下で木陰などを利用して行われた授業を青空教室といいます。

沖縄戦の戦禍をくぐり抜け、命拾いをした住民たちは次々と米軍に保護されていきました。上陸地に近い中部では早くから難民収容所が設けられました。日を追うごとに子供たちの数は増え、米軍にとっては子供たちを保護・管理することも課題になっていきました。

 5月に入ると、中部石川市に「石川学園」と呼ばれる戦後初の学校が開校しました。その時、南部はまだ戦闘の真っ最中にあり、本土においては授業が中断されていました。ところが石川市では、戦後の新しい教育がスタートしていたのです。ついこの間まで「鬼畜米英」と教えていた教師たちのなかには必死になって米軍から身を隠すのもいて、教師探しは困難でした。また、子供を学校へ行かせるよう大人たちを説得しても、日本軍が必死になって戦っているときに、敵の学校に子供をやれるか、と反対する律儀な親もいました。

学校が始まることを一番喜んだのは子供たちでした。米軍の攻撃を恐れ、息を殺し逃げ回っていた子供たちが、青空のもとで大声で歌い、かけまわることができるようになるのです。

戦禍で大半の校舎は焼失していました。破壊を免れた校舎も、敗走する日本兵の隠れ家になる可能性があるから、と米軍によって焼き払われていました。かろうじて焼け残った大木の木陰や原っぱに子供たちを集めて、青空教室での授業が再開されました。先生たちは知っている限りの話をきかせ、歌を歌わせ、地面をならして字を書かせました。読み書き、算数の基礎教育が中心でした。

現在、石川市城前小学校校門脇の記念碑には「…沖縄に於ける学校教育発祥の地。…開校当時の生徒数は790人、教師は20人。校舎はもちろん、黒板、教科書、ノートも無かった。砂に指で字を書かせるということから始まった」と記されています。

他方、地上戦のなかった離島においても、日本軍による校舎の接収、米軍の空襲や艦砲射撃で校舎はじめ学用品のほとんどを失っていました。

 8月、軍政本部内に教科書編集所が設置され、壕の中から焼け残った教科書などが集められました。中でも宜野座国民学校に師範学校付属国民学校の教科書を疎開させていたのが少し残っていて、これが大きな助けになりました。

校舎は青空教室からテント校舎、コンセット(ブリキ)校舎、馬小屋(茅葺)校舎、瓦葺校舎、セメント校舎へと移り変わり、徐々に整備されていきました。

*『沖縄を深く知る事典』(日外アソシエーツ株式会社発行)に掲載した原稿を修正した。宇根悦子


【参考文献】
『沖縄県史ビジュアル版 青空教室からの出発 ―戦後校舎の移り変わり―』/沖縄県教育委員会



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