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用語解説 戦 後  C反戦地主


反戦地主とは

沖縄本島の約20%が軍事基地です。本土では基地のほとんどが国有地であるのに対し、沖縄の場合、3分の1が国有地、3分の1が市町村有地、残りの3分の1が私有地です。
 軍用地主は約3万人。その中で、基地への土地提供を拒み日本政府との契約を拒否する軍用地主がます。いわゆる反戦地主と呼ばれる人々です。

「銃剣とブルドーザー」による強制土地接収

 1943年、日本軍は南方への中継地とするため沖縄に15ヶ所の飛行場建設計画を立て、土地の収用を開始しました。
 土地代は強制的に郵便貯金をさせたり、国債を購入させたりし、現金が地主に渡ることはほとんどありませんでした。なかには土地代が支払われたかどうかあいまいなまま、戦後は米軍基地となり国有地として扱われている土地もあります。

1945年4月1日、米軍は沖縄本島上陸と同時に本土攻略のための基地建設を開始しました。丘を削り、田や畑を潰し、境界線もわからなくなるほど敷き均し基地にしていきました。

第二次世界大戦後、東西の冷戦構造が明確になってきて、1949年には中国で革命が起き、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。共産主義を制圧するため、米軍は沖縄の基地を拡大強化する方針をとりました。

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。日本は独立しましたが、沖縄は住民の意思と無関係に日本本土から分離され、米軍の統治に置かれることになりました。

米軍は一旦住民に返した土地の再接収を開始しました。1953年4月、那覇市の銘苅地区、同年9月読谷村渡具知地区、同年12月那覇市具志地区、55年3・7月宜野湾市伊佐浜地区、同年3月伊江島真謝・西崎地区、と接収の中止を懇願する住民に銃を突きつけ、威嚇し、立ち退かせ、作物や家をブルドーザーでなぎ倒し土地接収を強行し、基地にしていきました

復帰後は法による強制土地使用

1969年、佐藤ニクソン会談に於いて沖縄の復帰が決まりました。「核抜き本土並返還」という住民の願いからはほど遠く、「安保条約」を根拠に基地はほとんど残り、核の存在もあいまいにされました。

「安保条約」の関係上、日本政府は米軍に土地を提供しなければなりませんでした。契約に応じる地主とは民法に則って20年の賃貸借契約が交わされました。2万7000人の地主のうち約3000人が契約を拒否しました。

日本政府は反戦地主の土地を強制使用するため「公用地法」を適用しました。政府は復帰前から基地として使用している土地を公用地とみなし、復帰後も5年間継続使用できるようにしたのです。

5年間の法的根拠が切れる1977年、戦争で不明確になった土地の境界線を明確にしてほしい、との反戦地主の要求を政府は逆手にとり、「地籍明確法」を制定、その付則で「公用地法」をさらに5年間延長し、使用を継続しました。この時、法の制定が期限切れに間に合わず、契約拒否地主の土地を日本政府が法的根拠がないまま使い続けるという「空白の4日間」が発生しました。

 それから5年後の1982年、日本政府は1951年に制定され休眠状態にある「米軍用地特措法」を反戦地主に適用し、さらに5年間の強制使用を継続しました。
 この時点で、自衛隊基地(復帰と同時に米軍基地から自衛隊基地になった基地)にある反戦地主の土地は返還されました。しかし、返還された土地は自衛隊基地の中で金網に囲まれ、現実的には自由に立ち入ることはできない状態です。

 今日まで日本政府は、反戦地主の土地の強制使用を続けています。

変貌する軍用地料

敗戦から講和条約発効まで米軍は戦争に勝った立場として軍用地料は支払いませんでした。講和条約発効後、米軍は契約地主には契約金を払い、契約拒否地主には損失補償金を払いました。しかし、年間のと土地代は「コーラ1本分」と表現されるほど安かったのです。米軍の人権を無視したしうちに民衆運動が高まり、1956年の“島ぐるみ闘争”へと発展していきました。米軍は基地の安定使用を図って1958年に地代を倍近くに上げていったため、殆どの軍用地主が契約に応じました。しかし、一方で契約拒否を貫く軍用地主がいました。

復帰が決まると、日本政府は円滑に契約をすすめるため、地代を4倍に引き上げ、契約する地主にはさらに契約協力金を支払いました。地代の総額約126億円、契約協力金等を含めると約6倍に引き上げられました。
 2001年、地代は850億円にまで膨れ上がりました(『沖縄タイムス』2002.7.3)。

一坪反戦地主運動

1971年12月、契約を拒否する3,000人が中心となって、「権利と財産を守る軍用地主会」(反戦地主会)が結成されました。それに対して日本政府はありとあらゆる手段で切り崩しを図っていきました。反戦地主は5年後には約500人、10年後には200人になりました。

2000年の時点で軍用地主は土地連加盟約三万人、那覇防衛施設局との直接契約約2,000人、一坪反戦地主を除く反戦地主が約100人です。

 1982年、日本政府の圧力に耐え抜いてきた反戦地主を支えるため、一坪反戦地主運動が始まりました。反戦地主の土地の一部を譲り受け、一人1万円を出して登記しました。米軍用地特措法が開始された同年12月、833名の一坪反戦地主が結集し設立総会が開催されました。

契約拒否を貫く反戦地主たち

阿波根昌鴻1903年〜2002年)さんは沖縄戦当時伊江島に住んでいました。島には東洋一といわれる旧日本軍の飛行場が建設されていました。
 島は戦場となり、多くの住民が戦闘に巻き込まれ犠牲になりました。阿波根さん夫婦は命拾いをしましたが、最愛の息子を失いました。その後、米軍によって慶良間諸島へ強制移住させられ、2年後、島に帰ってきました。
 ところが1955年、米軍の焼き討ちにあい土地を奪われました。他の住民と共に、幾度も琉球政府に陳情し、「乞食行進」をして全島を回り訴えた。
 1970年には学び合う場として団結道場を建設しました。
 戦争と平和に関する歴史を次代に伝え、二度と戦争を起こさせないため、1984年に「反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を設立しました。
 その後、資料館を訪れる人々に反戦平和を説き続けました。阿波根さんはあらゆる機会に克明な記録をとり、資料を収集しました。その一部が反戦資料館に展示されています。
 2002年3月21日永眠。阿波根さんの土地は今も米軍基地の金網の中にあります。亡くなる直前まで基地を撤去させ伊江島真謝原の土地に農民学校を造る夢を捨てていませんでした。

上原太郎1912〜)さんは那覇市具志で生まれました。1946年11月、名古屋から引揚げてきたとき、すでに具志地区は米軍の金網に囲まれていました。
 しばらくして、具志区民は米軍の許可を得ないまま自分の屋敷に移り住み、ふたたび畑を耕し始めた。何事もなく7,8年が経過した。1953年11月17日、米軍は無線標識を作るから農作物を取り除くようにと通告してきました。それは米軍が再び土地を使用するということです。区民は強制接収を止めるよう陳情を繰り返しました。しかし、米軍はこの陳情を聞き入れませんでした。
 12月5日完全武装した米軍がやってきました。区民は子供から年寄りまで座り込みをして抵抗しましたが米軍は強行したのです。
 現在、この土地は自衛隊那覇分屯地のなかにあり、「米軍用地特措法」摘用外となり1982年上原さんの土地は返還されたましが金網に囲まれ、通行証がなければ入れない状態にあります。それでも、戦争のために土地は貸さないと契約を拒否し続けています。

島袋善祐1936〜)さんは沖縄戦の時9歳でした。キャンプ・シールズ内に土地をもっています。1977年の法的「空白の4日間」の時には家族と共に先祖伝来の土地にトラクターを入れ耕し、魔よけのニンニクを植え、アヒルを放しました。つねにユニークな発想で反基地運動を展開し、反戦平和を希求する多くの人々に勇気を与えてきました。バラ園を営んできましたが、現在は息子に譲り、平和活動に力を注いでいる。

有銘政夫1931年〜)さんはサイパンで生まれました。父親をサイパンの戦闘で失い、1946年、家族7人は沖縄に引揚げてきました。
 父親が弟に頼んで買い求めてもらった土地は、すでに嘉手納基地の金網で囲まれていました。高校卒業後、教員をしながら土地闘争、B52撤去運動、毒ガス撤去運動、復帰運動、と平和に繋がるあらゆる運動にかかわってきました。
 現在は「沖縄軍用地違憲訴訟支援県民共闘会議」の議長を務めています。

池原秀明1943〜)さんは沖縄市知花に住んでいます。昼間は県庁に勤務し、夜は米軍の眼をかいくぐり、ヘッドライトを着け、妻と共に黙認耕作地の中にブロックを積み上げ豚舎を建てていきました。
 大きくなった畜舎は「米軍用地特措法」摘用外となり1982年に土地は返還されました。
 現在は養牛へ転換。牛舎は嘉手納空軍基地離発着コースの直下にあり、米軍機が頻繁に飛び交います。94年4月には、墜落したF15の車輪が牛舎から十数メートルのところに落下しました。

真栄城玄徳1942年〜)さんは旧越来村(現沖縄市)で生まれました。沖縄戦のとき本島北部へ疎開、父親を沖縄戦で失いました。
 収容所から帰ってくると故郷は嘉手納基地に変わっていました。母親は女手一つで子供たちを育てました。
 復帰後、一貫して契約を拒否し続け。その損失補償金で妻の栄子(1941年〜)さんとともに、子供たちが集う場「くすぬち平和文化会館」を建設しました。くすぬちとはクスノキのこと。生前祖母が慕っていた庭のクスノキを名前につけました。

反基地闘争を支えてきた反戦地主

契約拒否地主は反戦地主会に入っている人もいれば入っていない人もいます。それぞれの立場で基地に土地を提供することを拒否してきました。

1995年、契約拒否地主の代理署名を大田昌秀知事が拒否しました。拒否できたのは反戦地主の支えがあったからです。国の委任事務を拒否したとして知事は総理大臣に訴えられました。それに対し、沖縄県側は23人の反戦地主の証人申請をしましたが却下されました。最高裁判所は地主の証言を聞かないまま結審し、結果は敗訴でした。

 1999年「米軍用地特措法」の改定により、地主が契約を拒否しても総理大臣が代理署名することで強制使用できることになりました。

 国民の権利よりも、国益が優先にされるという憲法と矛盾する法律が成立したのです。


*『沖縄を深く知る事典』(日外アソシエーツ株式会社発行)に掲載した原稿を加筆・修正した。宇根悦子




 


【参考文献】
◇『沖縄・反戦地主』/新崎盛暉著/高文研発行
◇『反戦地主の源流を訪ねて』/本永良夫編著/あけぼの出版発行

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