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伊江島は沖縄本島北部にある本部半島の北西約9キロメートルに浮かぶ、東西8.4キロメートル、南北3キロメートル、周囲22.4キロメートルの島です。島の中央よりやや東よりに、海抜172メートルの古生代チャートの城山がとんがり帽子のようにそびえ立っています。
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戦中〜戦後
第二次世界大戦中旧日本軍は南方戦線への中継基地としてこの島に「東洋一」と呼ばれる飛行場を建設しました。沖縄戦では、その飛行場があったため米軍に狙われる結果となったのです。
1945年4月16日、島に米軍が上陸、一週間にわたる激しい闘いが展開され、住民も戦闘に巻き込まれました。米軍の攻撃だけでなく、日本軍による住民虐殺、強制的集団死が発生しました。その結果、村民約4,000名のうち1,500名が亡くなりました。
生き残った住民は米軍によって慶良間諸島に強制移住させられました。慶良間諸島では山にひそむ日本軍を説得して降伏を促す役割を負わされ、日本軍に捉えられて処刑された住民もいます。
住民に帰島の許可が出たのは2年後でした。住民は破壊し尽くされた土地を耕し、小屋を建て生活の建て直しに力を尽くしました。
ところが1953年、再び米軍による強制土地接収が始まりました。米軍は家を焼き払い、ブルドーザーで整地していきました。抵抗するものは投獄されました。いわゆる「銃剣とブルドーザー」による強制土地接収です。最終的な接収面積は13.9平方メートルとなり、島の63パーセントにも及びました。米軍は連日昼夜を分かたず激しい訓練を続け、住民被害も発生しました。被害を受けた住民は地道な抵抗運動を続け、8平方キロメートル(42%)に縮小させることができました。その後も徐々に返還されましたが、今もなお島の35%が米軍基地にとられたままです。
アハシャガマ(自然壕)
伊江島の戦闘で、島の北東部にあるアハシャガマには東江前や東江上の住民約20世帯(約120人)が避難していました。そこへ、米軍に追われ逃げてきた防衛隊も合流しました。防衛隊は急増爆雷を持っていました。
4月22日頃、防衛隊を追って米軍がアハシャガマの前まで迫ってきました。米軍はガス弾などで攻撃し、降伏して出てくるように、と呼びかけられました。しかし、誰一人出ようとはしませんでした。当時は「鬼畜米英」と言われ、米軍は鬼のような人たち、捕まったら殺されると教え込まれていたからです。
アハシャガマは奥行き約20m、広さ約100m程で、逃げ場は無く、たちまち壕内はパニック状態に陥りました。皇民化教育が浸透し、天皇のため敵に捕まる前に死ぬのが立派だと思いこまされていました。住民は米軍に追い詰められ、防衛隊が持ち込んだ地雷3個で自爆してしまいました。
1971年12月、ここから百数十体の遺骨が発掘されました。
団結道場
島の西部に平和を願って合掌するように建てられている団結道場があります。この団結道場は「伊江島土地を守る会」によって建てられました。
1961年7月、会長阿波根昌鴻氏、発起人平安山良有氏、石川清氏、浦崎直良氏によって「伊江島土地を守る会」が設立されました。会では、自分たちの力で土地を守るため、学習の場、村外や県外から訪れる人の宿泊の場として、また戦争をする無知な米軍に人間教育をするための場として団結道場を創ることにしました。暴行、監禁など幾多の米軍の妨害を乗り越え1970年5月に着工し、9月に完成しました。
1980年までは宿泊研修所として使用されていましたが、現在は伊江島土地闘争の
歴史を語り継ぐシンボルとなっています。
【参考文献】
『次代へ』2003年度 平和学習実習報告書 定点観測船5号 沖縄国際大学 石原ゼミナール
「証言資料集成 伊江島の戦中・戦後体験記録集」伊江村教育委員会
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反戦平和資料館 ヌチドゥタカラの家 |
故阿波根昌鴻氏によって設立されました。
阿波根さんは島の西端にある土地を米軍に奪われました。生前、非暴力の抵抗運動を続け、米軍が訓練中に落とした模擬爆弾や薬莢等を収集し、詳細な記録を残しています。
ゆずり合い、助け合い、学びあう場として「やすらぎの家」を立て、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を開設しました。その全体を「わびあいの里」と呼んでいます。
伊江島修学旅行のメインコース。
(財)わびあいの里 〒905-0502
沖縄県伊江村字東江前2300-4
TEL:0980-49-3047
FAX:0980-49-5834 |
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