月桃の花ロゴ           HOME


用語解説 沖縄戦 B捨石作戦


住民総動員の戦闘態勢

1931年の「満州事変」に始まった日本の侵略戦争は、1937年には中国との全面戦争へ突入し、さらに、1941年からは太平洋アジア戦争へと拡大していきました。翌年のミッドウェー諸島での戦闘あたりから日本はしだいに敗戦の色を見せ始めていきます。
 そこで、日本軍部はマリアナ諸島を先端とする内側に絶対国防圏を設定、最前線に向けての中継地にするため、沖縄に飛行場建設を計画しました。軍部が絶対的権力を握っている時代にあって、沖縄住民は土地の提供を余儀なくされていきました。
 1944年に入ると飛行場建設は本格化し、大人から子供まで3万人ともいわれる県民が徴用され、飛行場建設に従事させられていきました。
 同年3月、沖縄守備軍が設置され、満州や日本本土から8万人の日本軍が沖縄に入ってきました。新たな軍の施設を建設している余裕はなく民家が宿舎となり、学校は営舎や病院へ、村屋(現在の公民館)・銭湯・医院などが慰安所にされていきました。
 戦争が長引くにつれ、日本軍の兵力はじめ武器、弾薬、燃料、食料あらゆる物が不足していきました。沖縄守備軍司令官牛島満(1887年〜1945年)は着任後「現地自給ニ徹スベシ」の訓示を出しました。戦争を継続するために必要な食料、労働力は現地で調達せよということです。日本軍は住民に対して食料供出を強要しかき集めした。軍の労働力を補うため、防衛召集が実施され、17歳から45歳の男性が集められました。戦闘地域では、15歳の少年、70歳の老人も動員され、法的根拠のないまま男女学徒も動員されていきました。
 1944年7月には老幼婦女子10万人の疎開が閣議決定されました。疎開の目的は人命救助でしたが、一方では戦闘の邪魔にならないようにということと、人口を減らし軍部の食料を確保しようということだったのです。しかし、疎開よりも戦闘協力が優先され、戦闘要員(主に男性)の疎開は一切許されませんでした。
 すでにその頃、沖縄近海は米軍の潜水艦が頻繁に航行し、海はすでに戦場となっていたのです。8月22日には、学童疎開船対馬丸が九州へ向かう途中奄美大島悪石島付近で米軍の潜水艦ボーフィン号の攻撃を受け沈没しています。
 年が明け、日本の敗戦は確実となり、政府及び天皇の周辺では敗戦に向けての工作が行われていましたが、国民に戦況の真実が知らされることはありませんでした。戦後も天皇制を維持するため、わずかでも日本に有利な形で戦争を終わらせたかったのです。

米軍沖縄上陸

1945年3月26日、米軍慶良間諸島へ上陸。4月1日には沖縄本島への上陸を開始しました。沖縄攻略作戦に参加した米軍は54万8000人、そのうち18万人が上陸してきました。迎え撃つ日本軍は現地召集兵合わせて11万人でした。勝敗はもはやあきらかでしたが、日本軍は水際作戦をとらず持久戦をとったため、ほとんど米軍に抵抗せず、米軍は無血上陸を果たしました。
 日本軍はわずかな武器・弾薬で確実に敵に打撃を与えるため陸海空において特攻を展開しました。いわゆる「自爆」です。陸上では蛸壺(たこつぼ)作戦、海上では特攻艇、空中では特攻機、いずれも、人間が爆弾を抱えて体当たりをする、という方法がとられていきました。爆弾を抱え戦車の下にもぐり込む蛸壺作戦は米軍を恐怖に陥れました。特攻機は台湾や鹿児島県鹿屋基地から飛んできましたが多くの場合、軍艦に到達する前に打ち落とされるか、的をはずれ海に突入していきました。
 上陸地から司令部の置かれている首里まで直線距離で約20km、その間約50日に及ぶ一進一退の激戦が展開されていきました。
 5月半ば、日本軍は戦力の80%を消耗していましたが、それでもなお戦い続けることを決定し、司令部は島の南端摩武仁へと移動、6月はじめ司令部は撤退を完了しました。

住民を巻き込んでの「捨石作戦」

「なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄島の南の崖、尺寸の土地の存する限り戦い続ける覚悟である。」(八原博道『沖縄決戦』読売新聞社1972年)。日本軍は住民を総動員し、徹底抗戦の構えでした。南部には十数万人もの住民が避難をしていたのです。沖縄本島南部は隆起珊瑚礁で形成されており、そこにはガマと呼ばれる無数の地下洞窟が存在していました。ガマには避難民が地上の砲弾に追われ身を隠していました。そこへ敗走する日本兵が入り込んで行ったのです。日本軍は住民を楯にしながら時間稼ぎの「捨て石作戦」を展開しました。軍民雑居のガマでは日本軍による壕追い出し、食糧強奪、スパイ嫌疑の果ての虐殺、幼児殺害、集団死が起きていきました。日本軍にとっては自ら生き延びることが最優先だったのです。
 日本軍と住民が入り乱れ、米軍は住民の保護に手間取りました。その意味では日本軍の時間稼ぎのための「捨石作戦」は成功したといえるのかもしれません。
 6月19日司令官牛島満は最後の戦闘命令を出しました。「最後まで勇戦敢闘し、悠久の大儀に生くべし」と最後まで徹底抗戦を命じ、6月23日牛島は自決しました(米軍記録は6月22日)。その命令のために司令官が自決してもなお残存兵は戦闘を続けました。米軍が沖縄作戦の終了宣言をしたのが7月2日、降伏調印が交わされたが9月7日でした。それでも敗走を続ける日本兵がいました。また、ガマに避難している住民が、米軍が空から撒いた投降勧告ビラをもっているだけで日本軍はスパイの疑いをかけました。投降も許されずガマのなかで餓死する住民もいました。


*『沖縄を深く知る事典』(日外アソシエーツ株式会社発行)に掲載した原稿を修正した。宇根悦子

 

【参考文献】

『沖縄戦と民衆』林博史著/大月書店

お問い合わせはこちらから 海勢頭豊のライブハウス「エルパピリオン」 映画「MABUI」ホームページ