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用語解説 沖縄戦 C戦争マラリア


島嶼県沖縄

 沖縄県は日本の南端に位置し、東西1000km南北400kmの海域に160余の島々が点在する島嶼県です。
 1945年、沖縄本島は15年戦争最後の戦場となり、住民が巻き込まれ犠牲になりました。離島においては、地上戦にこそなりませんでしたが、米英軍の砲爆撃、日本軍による住民虐殺、集団死、戦争マラリアなど、さまざまな状況で住民が死に追いやられていきました。

戦争マラリア

沖縄本島から南西約450kmにある石垣島、西表島、波照間島においては軍命によって、住民がマラリア有病地帯へ強制移住させられ犠牲になりました。この戦中のマラリアを一般のマラリアと区別して戦争マラリアと呼んでいます。
 マラリアは熱帯地方の風土病で16世紀頃、西表島北方で座礁したオランダ商船によってもたらされたと考えられています。マラリアはハマダラカに寄生する原虫によって媒介されます。罹患すると高熱と痙攣に襲われ、体力のないものは死に至ります。

石垣島の戦争マラリア

1944年3月、沖縄守備軍が創設され、八重山には独立混成第45旅団が配置されました。45年4月〜8月にかけて石垣島の大川・登野城区民は日本軍の命令によってマラリア有病地帯の白川へ強制移住させられたのです。米軍が上陸してきたら住民は戦闘の足手まといになる、また、住民から軍の機密が漏れるおそれがある、と日本軍は考えたのです。
 避難先の白川は暗くて湿気の多い不衛生な谷間でした。にわか作りの避難小屋は狭く簡素なものでした。避難民の間では1週間もするとマラリアの症状が現れ、谷間一帯は患者のうめき声で埋め尽くされました。日本軍が持っていたマラリアの特効薬キニーネは住民には渡りませんでした。
 避難民のほとんどがマラリアに侵され、互いに看病することもできず、家族の中から死人が出ても死体を埋葬することすらできませんでした。誰かが回復するのを待つか、外部から発見されるのを待つしかありませんでした。マラリアのために家族全員が死亡した家もありました。
 毎日数名が死亡し、その上、火葬場の窯も故障、板の上に何人もの遺体を置いて焼きましたが間に合わず、何日も順番を待たなければなりませんでした。附近一帯は死臭が充満し、この世の地獄と化していきました。
 症状は重く、避難民たちは終戦を迎えてもすぐに元の居住地に戻ることができず、翌年まで待たなければなりませんでした。

波照間島の戦争マラリア

 1944年、山下虎男(偽名)なる人物が青年学校の教師として波照間島に現れました。山下は陸軍中野学校出身で工作隊として波照間島に送り込まれていました。山下は波照間島の住民に対して、マラリア有病地帯の西表島へ移動するよう命令しました。従わない者には抜刀し威嚇しました。脅された住民たちは山下に従わざるを得ませんでした。移動した西表島でやがてマラリアに罹り、次々と死んでいったのです。
 波照間島は八重山地区のなかでも家畜を多く養っているところでした。そこには豚をさばくための堵殺場がありました。山下は軍の食料を確保するために住民をマラリア有病地帯へ追いやったのです
 波照間島住民1,590人のうち1,587人がマラリアに罹り、住民の30%にあたる477人が死亡しました。
 戦争マラリアの遺族達は1989年に「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成し、国に補償を求めました。ところが国はこれを認めず「慰謝事業」として「沖縄県八重山平和記念館」を造ること、慰霊碑を建立することでその代償としました。

島と戦争

島嶼県である沖縄は島によって戦況が異なり、それぞれの島のそれぞれの戦争がありました。
 日本軍の圧力、軍隊の論理の刷り込み、限られた情報、行き場のない「島」という閉塞的な環境が極端に選択肢を狭め住民を死に追いやっていきました。
 戦争マラリアは直接的な戦闘による犠牲ではありません。しかし、戦争のために犠牲になったことは確かです。戦場においては、軍隊の論理が最優先であり、住民は利用こそすれ、守る対象にはなりませんでした。


*『沖縄を深く知る事典』(日外アソシエーツ株式会社発行)に掲載した原稿を加筆・修正した。宇根悦子

 
【参考文献】
『争点・沖縄戦の記憶』石原昌家・大城将保・保坂廣志・松永勝利・著/且ミ会評論社



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