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用語解説 戦 後 @ゼロからの出発


艦砲の喰い残し(カンポーヌクェーヌクサー)

 戦後生活の始まりは一人ひとり異なっていました。
 米軍最初の上陸地、座間味村では1945年3月26日米軍が上陸、集団死へと追い詰められる住民がいました。生存する住民は米軍に保護され戦後生活に入っていきました。沖縄本島においても4月1日米軍が上陸、その日から米軍の保護下に入る住民がいました。米軍は戦闘を進めながら、一方では生存する住民を保護し、収容していきました。戦後、雨のごとく降り落とされる艦砲射撃の中から生き延びた人々のことを「艦砲の喰い残し(カンポーヌクェーヌクサー)」と呼ぶようになっていました。
 米軍は住民を収容所に囲ったまま白地図に線を引くように基地建設も進めていきました。その間、 住民は各地に置かれた収容所を転々と移動させられました。家族は離れ離れ、生死も不明でした。家族の行方は、軍作業で収容所間を行き来する者によって知らされました。収容所を出て自由に出歩くことも許されず、無許可で夜間外出し、米軍に見つかって射殺される者もありました。
 1945年11月、住民は少しずつ収容所から解放されます。全員が解放されたのは1947年に入ってからでした。

新しい命

 生活用品は、米軍の配給物資に頼らざるを得ませんでした。それでもあらゆる物が不足、米軍物資の抜き取りが公然と行われていきました。一方で、廃材を利用した生活用品が作られていきました。コーラ瓶がコップに、メリケン袋が下着に、焼夷弾が灰皿に、パラシュートがウエディングドレスに姿を変えていきました。戦争兵器が平和的に活用され生活用品に生まれ変わっていったのです。
 破壊された土地に作物が植えられ、少しずつ家畜も養われるようになり、新たな命が芽生えていきました。

ゼロからの出発

 沖縄本島で残った建物は約5%でした。収容所には35万人の住民がいました。住宅の絶対数が不足していたのです。初めは米軍支給のテント小屋生活。やがて、米軍からトウバイフォー(2×4)と呼ばれる松材の規格住宅が支給されました。木材は主に骨組みに使用され、屋根は茅葺き、壁はすすきを編んで作っていきました。それでも材料は不足し、全体には行き届きませんでした。始めは無償配布だった木材も、徐々に有償になっていきました。
 水の確保も困難でした。平地の多い中南部では井戸水や雨水に頼らなければなりません。米軍は浄水施設の建設をすすめていきましたが、米軍の専用施設であったため、そこから分けてもらわなければなりませんでした。
 交通手段もまた米軍に頼らざるを得ませんでした。暫くして、トラックバスがお目見えします。米軍払い下げのトラックに幌をつけ、荷台にベンチを備え、後部に梯子をつけて乗り降りしました。
 電気の使用は米軍基地の周辺から始まりました。米軍から譲り受けた発電機で電気をおこし送電、電気が届かない地域では昔ながらのランプ生活が続きました。
 戦後始めての教育が再開されるのは5月中旬、石川市の城前小学校からです。教室、教科書、ノート、黒板、机、何一つ無く、「青空教室」のからスタートでした。先生は子どもたちを集め、話を聞かせ、砂に文字を書きました。そのころ首里では沖縄守備軍司令部を巡って激しい戦闘が展開されていたのです。
 戦後生活の始まりは全てを失い、ゼロからの出発だったのです。


 


【参考文献】
『沖縄を知る事典』(日外アソシエーツ株式会社発行)に掲載した原稿を加筆・修正した。宇根悦子

『沖縄事始め・世相事典』佐久田繁、山城善三著(月刊沖縄社)
『ことばに見る沖縄戦後史』琉球新報社編(ニライ社)

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